了賢寺の歴史

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了賢寺の歴史

540年以上の歴史を誇る『了賢寺の歴史』

了賢寺の歴史

1476(文明8)年 3月

文明8年(1476年)3月に紀伊国阿間郡(きいのくに あまのこうり)清水浦の住人、喜六太夫(きろくだゆう)が熊野街道の藤白峠の『御所の芝』(別名『後世の芝』)にて、熊野参詣の途中の本願寺第8代宗主(しゅうしゅ)蓮如上人に出会い、上人より直々に「他力念仏の教え」を教導いただく。
上人熊野よりの帰路の途中、喜六太夫の案内により清水浦に立ち寄られ、太夫の自宅にて更に教えを受け、太夫は浄土真宗のみ教えに帰依し、上人の直弟子となって、「釋 了賢(りょうけん)」という法名を頂きました。
その後、自宅に上人直筆の「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)の六字名号(ろくじみょうごう)」のご本尊を安置して「念仏道場」としました。これが了賢寺の開創であり、本年令和元年で543年になり、紀州における「浄土真宗」の起源とも言われています。
さらにその後、道場を清水浦の西の浦の「飯盛山(いいもりやま)」に、別名「御坊山(ごぼうやま)」・「御山(おやま)」に移して、「清水道場」として、本格的に他力念仏の教えをこの地にひろめました。

1476(文明8)年10月

10月に了賢は、河内国出口村<現、大阪府枚方市出口>に居られた蓮如上人のもとを訪ねて、「二尊連座像」(宗祖親鸞聖人と中興蓮如上人の絵像が一幅の掛け軸に描かれたご影像で、「二尊像」とも言う)<現在 本願寺鷺森別院所蔵>を「九字(くじ)、十字(じゅうじ)名号」と共に10月29日に賜りました。「十字名号」のみ当寺所蔵<文化財(法宝物)に紹介に写真あり。>

1486(文明18)年3月

3月8日、蓮如上人は河州出口村を船で出発されて、各地で3泊された後11日に清水浦に再度ご下向、ご教化の後、病に臥せっている清水浦の同行 作四郎に対して、『信心獲得の御文章-しんじんぎゃくとくのごぶんしょう-(御文-おふみ-)』<直筆文当寺所蔵ー文化財(法物)に紹介・写真有り>を著述されて、ご教化されて、翌12日朝、同行衆と別れを惜しみつつ船に乗ってお帰りになました。その時の様子を、「わきいずる 清水の浦を今朝は早や別れて帰る 後の恋しさ」と蓮如上人が、詠まれたと伝えられています。そのことは、蓮如上人が書かれた、『紀伊の国紀行』に書かれています。

1492(延徳4・実際は明応元)年10月

10月23日、蓮如上人より「方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう=阿弥陀如来の絵像)」<文化財(法宝物)紹介に写真あり。>を下付される。
同日、開基 了賢(俗名 喜六太夫)が往生する。

1507(永正4)年

本願寺第9代宗主実如上人、紀州の浄土真宗の発展と共に、同行衆の増加によって、また参詣人の交通の便等を考慮して、 道場を清水浦の対岸の「黒江・橋尾山」に移し「黒江坊舎」となりました。後、第10代宗主証如上人は、 同じ黒江の「天王山」に移し、「黒江坊舎」後江戸時代には「黒江御坊」、明治8年の制度改革により現在の黒江・浄國寺さんとなりました。

1550(天文19)年

更に証如上人は、戦国動乱の世相に応じて黒江より、三度目の和歌浦の「弥勒寺山(みろくじさん)」<現在の和歌山市和歌浦の「秋葉山」>に移し、「弥勒寺山坊舎(みろくじさん ぼうしゃ)」となりました。

1563(永禄6)年

第11代宗主顕如上人は、更に世情を考慮して弥勒寺山より、四度目の和歌山宇治郷(うじごう)鷺森(さぎものり)に移し、「雑賀(さいか)坊舎・御坊」後「鷺森御坊」となり、現在の本願寺鷺森別院となりました。
《鷺森御坊は、顕如上人の時、1580(天正8)年4月から1583(天正11)年7月まで、大坂での11年間に亘る織田信長との戦い「石山合戦・戦争」の和議により、大坂を退出されて、紀州鷺森に本山・本願寺を紀州に移転され、本山が置かれていた所でもあります。近年、近くの小学校開設工事に伴う遺跡(鷺ノ森遺跡)調査の発掘で大規模な”堀”があったことが判明されました。》

1677(延寳5)年4月

4月、清水浦に於ける念仏道場として残された「清水惣道場(しみずそうどうじょう)・圓乗寺(えんじょうじ)」に7日、本願寺第14代宗主寂如上人より、『二尊連座御影像』<当寺所蔵>が、再下付される。<文化財(法宝物)紹介に写真あり。>

1717(享保2)年

清水浦の清水総道場、圓乗寺を、了賢寺に改称する。

1732(享保17)年1月

本願寺第15代宗主住如上人、了賢寺を本願寺の兼帯所(けんたいしょ・・・本願寺の門主が住職を兼ねる寺院で掛所(かけしょ)とも言われた)とする。

1778(安永7)年

第17代宗主法如上人の時、了賢寺を「清水御坊、後 冷水御坊」とする。
寺基を飯盛山より、清水浦の「中の浦」の現在地に移し、現本堂(南北10間・東西11間)を建立する。

1787(天明7)年3月

3月29日、当寺初代留守居(るすい) 義観往生する。

1787(天明7)年6月

6月16日、第2代留守居を恵明継職。

1802(享和2)年10月

10月1日、第3代留守居を智海継職。

1814(文化11)年12月

12月17日、第2代留守居 恵明往生する。

1832(天保3)年1月

1月29日、第4代留守居を了英継職。

1834(天保5)年12月

12月6日、第3代留守居 智海往生する。

1858(安政5)年8月

8月29日、第4代留主居 了英往生する。

1858(安政5)年12月

12月1日、第5代留守居を了圓継職。

1902(明治35)年10月

12月27日、第5代留守居 了圓往生する。第6代住職を了燃継職。(明治8年の本願寺の制度改革により、留守居から住職になる)

 

1928(昭和3)年7月

7月2日、第6住職 了然往生する。第7代住職を泰憲継職。

1936(昭和11)年6月

6月12日、第7代住職 泰憲往生する。

1955(昭和30)年12月

12月5日、第8代住職を良雄継職。

2003(平成15)年9月

9月30日、第8代住職 良雄往生する。

2003(平成15)年11月

11月7日、第9代住職を教智継職(現住職)。

2006(平成18)年4月

4月15日~16日、開創530年記念・二尊会法要を厳修し、記念事業として、前年の2005(平成17)年に本堂内陣を一部修復工事と仏具の修復を行う。